諦めていたつもりだけど諦めきれていなかったこと
こんばんは♫
今までブログサボっていたので一日で2回も書いちゃっています
このパターンは最初に気合を入れすぎて続かないパターンですね笑
でも、一方で勢いがあるうちに書いてしまうのもありだと感じます。
僕の場合はあれこれ考えると動けなくなってしまうので動けるときは動いてしまおうといま考えています。
で、タイトルで大袈裟な内容かと思うかもしれませんが正直どうでもいいことです。
僕はすごい牡蠣が大好きなのです。
しかし、数年前に生牡蠣にあたってしまいかなり苦しい体験をしました。
そして生牡蠣にあたって一年後に蒸し牡蠣なら大丈夫だろうと再挑戦しました。
し、か、し、、、、
またあたっちゃいました。
それからもう怖くて牡蠣なんて食べなくても生きていける!と自分に言い聞かせて牡蠣を目の前にしても食べないという選択肢を選んでいました。
それからずっと牡蠣を食べずに3,4年を過ごせていました。
そして、スーパーに買い出しに行ったときに惣菜コーナーでカキフライを見た瞬間にあの辛かった記憶も薄れたおかげ?かもしれませんが・・・
ちゃんと火が通ったカキフライなら大丈夫なんじゃない?と心の声が聞こえてきました
そして気づいたらお酒のツマミとして気づいたら手にとってレジに持っていっていました笑
そしてその日の夜は久しぶりのカキフライを堪能しました
学習しないもんですね笑
諦めていたつもりだけどやっぱり諦めきれていなかった
未練タラタラですね笑
そして数日間様子を見て・・・・
晴れて体調を崩さずに過ごすことができました笑
それに味をしめてカキフライを現在も普通に食べるようになりました
欲を言えば生の牡蠣が大好きなのですが、カキフライでも牡蠣を食べられることが嬉しいし、牡蠣大好きなので幸せを感じながらカキフライを頬張っております笑
諦めていたものを今も食べられるって幸せだなと感じますね。
はい!どうでもいい話だったと思いますがただそのことを書きたかっただけです
諦めていたことでも形を変えて挑戦してみると案外行けるジャンルもあるのかもしれないなと哲学的な感じな考えに至りました笑
ここまで読んでくれてありがとうございました
では、またねー
久しぶりの投稿です
だいぶサボっていました
かなーり遅れましたがあけましておめでとうございます笑
何を書こうか何も決めていませんが、急にブログを書きたい衝動に駆られたので書きます。
昨日健康診断でした。最近体調が思わしくないのですが、中間結果では特に問題がなさそうなので安心しました。最終的な結果が来るまではちょっとドキドキですが。
年齢もアラフォーになり、昔までは感じなかった不調も少し多くなった気がします。
できるだけ悲観的にならずに日々を楽しんでいこうと個人的には考えています。
年齢も重ねてくると昔に比べてなにかしらの不調が出てきて当たり前かなぁくらいで考えています。
身体の不調ばかりに目を向けても心が後ろ向きになりますし、自然な流れを受け入れることも大切だと感じます。
そして昔に比べてだいぶ生きやすくなってきた感はあるのですが、人は不安になるのが基本的な生き物なようなので何かしら不安の種を見つけては思い悩んでしまうこともあります。
不安は一生抜けることはないと思いますが、人は不安になるのが基本なのだからと受け入れて不安と付き合っていくしかないかなと今の感情に目を向けることにしています。
身体も心も日によって体調が良い日もあれば悪い日もあります。
人は十人十色でみんな違うから正解というものが存在せず、生きるって難しいなぁとモヤモヤと考えてしまうのも自分だと認めてあげて今年もぼちぼちとやって行こうと思います
ここまで読んでくれてありがとうございました。
では、またねー
不可能を受け入れることの重要性
おはようございます。
不可能を受け入れることの重要性について綴っていきます。
偏見に満ちあふれているかもしれませんが、優しく見守っていてください笑
ITが進歩して日々色々な情報の波に飲まれそうになる時代です
SNSも発達してキラキラした部分などを見ることによって他人のことを羨ましく感じやすくなっていることも事実です
ITが進歩したこで世の中の色々なことが便利になり、恩恵を受けているのも事実ですが、メリットが増えたぶんデメリットが増えたことも多い気がします
もちろん僕自身、ネット上でブログを書いているのでITの恩恵を受けている一人になり、ネットがない生活なんて考えることもできません。技術の進歩には本当に感謝です
しかし、先程書いたようにSNSで他人と比較したり、知らなくてもいいようなニュースが次々と流れ込んだりと本来悩まなくて済むようなことで悩んだりということもあります
ITを例に上げましたが、ITに限らず技術進歩により今まで時間がかかっていたようなことが一瞬で済ませられるようになったものも多いです
昔なら遠方にメッセージを送る手段として手紙しかありませんでしたが、今はメールやSNS、電話で一瞬で済ますことが可能になりました
色々な技術が進歩することにより家事、仕事、お金のやり取り、人間関係で今まで時間がかかっていたものがより時短で済ませられることも増えています
しかし、現代は昔と比べて労力をかけず、時短で物事をこなすことができるようになってきたはずなのに時間に余裕ができた感覚がなぜかありません
むしろ、時間がなくなった感じがします
すごく矛盾を感じます
時間をかけず、便利になり生産性が上がり時間を作ることができるようになっているはずなのに、なぜか時間に余裕ができない
何かがおかしいと感じます
時間に余裕ができない理由として、空いた時間をまた埋めてまったり、空いた時間に割り込まれたりすることが原因かもしれません
表面的には空いた時間を埋めたり、埋められたりということですが、時間に余裕が無いのはもっと根本的なところにある気がします
その根本的な原因とは、もしかしたら物事の不可能を受け入れることができないことにあるかもしれないなと考えています
どういうことかというと、空いた時間をさらに埋めることができるはずだと考えて何もしない時間を悪いことだと考えてしまうことから始まるのかもしれません
空いた時間を未来の為に生産的に使わなかればいけない、暇な時間は悪だという考えを取り除かないことには時間に余裕が生まれないのかもしれません
結局空いた時間を埋めてしまうわけです
もっと生産性があることに使えるはずだ。よりよい未来を実現するためにもっと今という時間を生産性を上げて有効活用することによって理想の未来が来るはずだと。
以前とは異なり芸能人だけではなく、今はSNSなどで一般人のキラキラした部分を見ることが簡単にできるようになりました
一般人のキラキラした部分を見ることができるようになった今、自分でもその理想を実現することができるようになるはずだ、手の届く範囲にあると考えやすくなりました
もちろん、理想像に近づくために努力することを否定するつもりもありません
しかし、生産性を上げることによって何でもできるような錯覚に陥りやすいのも事実なんだろうなぁと感じます
生産的に物事を進めることによって時間を作ることができてあらゆる物事を効率的にこなすことができる。そしてさらに生産性を上げてさらに理想の未来に近づいていけると
当たり前ですが限りある人生すべてを選択することもできません。そして明日生きている保証なんてどこにもありません
人間の人生の時間は限られていて案外短いものです
時間をすべて生産性があることに使い、いつか理想の自分になると幸せになれるはずと頑張るのですが、そのいつかはこないのかもしれません
どんな人にも悩みがあります
もし、理想の自分像になれたとしてもその時100%幸せかどうかというとそんなことはないと思います。また新たな悩みがあるのでしょう
100%理想な状態というのは不可能です
理想な状態を目指すことを否定しているのではなく、100%理想な姿なんてないと受け入れることがすごく重要だと言いたいのです
完璧な理想なんてないと受け入れることで、今空いた時間を生産的に使わなければ幸せになれないという考えの呪縛から解き放たれるでしょう
生産性の呪縛から解き放たれない限り、ずっとやってくることのない完璧で幸せな理想の未来を追い求め続けることになるでしょう
それって本当に今を生きているのか疑問です
もちろん僕の考えを正しいだなんて主張するつもりなんかありません
ただ、不可能を受け入れることで今の生き方を考えるきっかけになるのではないかと言うことを伝えたいのです
僕自身、生産性を追い求めて時間を使っている時期があったのですが、なんだか生きている心地がしませんでした
今を生きているのではなく、過去を悔み、未来を夢見たり心配したりと
結局、今の連続が過去になり、未来へと繋がっていきます
もちろん100%今を生きるということも不可能なのかもしれません
しかし、物事には不可能があると受け入れることで今できることが見えてくるのも事実です
世の中が便利になり、人生という限りある時間の中できることが昔と比べて増えました。
ただその一方、弊害として不可能を認めたくないが故にさらに時間を作り出すために生産性の呪縛にもとらわれやすくなりました。
生産性を上げて未来の為にさらに時間を捻出し、時間を支配して自分には限界がないのではと全能感が生まれるきっかけになっているのかもしれません
当たり前ですが、限りある人生でできることなんてほんの一部に過ぎません。生産性を上げて時間をいくら作り出してもできることには限りがあります
時間ができてもやることリストが増える一方で永遠に終わることがありません
永遠に何かに追われている感覚とさよならするためには、何ごとにも限界があることを受け入れることが大切なのです
努力するなとか、理想を追い求めるなとか言いたいわけではありません
不可能を認めることによって今という貴重な時間ときちんと向き合い、今本当にやるべきことを取捨選択するきっかけになるのではないかと言いたいのです
人生を大切に生きるためには不可能を受け入れることから始まるのではないのでしょうか
人生全て思い通りになるという考えから、思い通りにいかないことが当たり前という前提でいるほうが気楽に生きられるような気がします
うまくまとめられていませんが、不可能を受け入れることで本当に今やるべきことが見えてくるんじゃないかなと思います
今回はこの辺にします
ここまで読んでくれてありがとうございます
では、またねー
話を聞かない人に思うこと
こんにちは♪
僕の身近に話を聞かない人がいるのですが、話を聞かない人に対して思うことを書いていこうと思います。
その話を聞かない人は、人が話している最中に自分の意見を言って人の話を遮ったり、自分自身の考えを曲げない人です。
今現在、話を聞かない人に関してブログを書いているわけですが、僕自身、昔は話を聞かない人でした。今もその節は残っているかもしれませんが・・・
話を聞かない人と話していると、自分が話している途中で話を遮られてとても不愉快な気分になりエネルギーを失われていく感覚になります。
最後まで話し聞けよって感じです。
以前、僕が話を聞かなかったときに友人に言われました。人の話を遮るな不愉快だと。話を最後まで聞いてから、自分の意見を言えと強く言われました。
その時にはっと気づかされました。今ではその友人に感謝です。本当にありがたい。
話を聞いていなかったときは自分では気づけませんでした。強く言われて気づくことができて本当に良かったです。
自分自身では本当に気づけないんですよねぇ。今となっては分かる気がします。人の話をさえぎることがこんなに不愉快な思いにさせるんだと・・・
そして現在話を聞かない人と話していると気づくわけです。あぁ、なんだか自分の話がないがしろにされているなぁと。
その話を聞かない人は身近な人ではあるのですが、強く注意するまでの間柄ではないので反面教師として接しています。
もし、その人に僕が強く注意したとしても性格上、僕の言うことを理解出来なさそうな気がします。
まぁ、人は変えられませんし。
人間には耳が2つあり、口が1つあります。
ユダヤの格言に
「人には口が一つなのに耳が二つあるのは何故だ それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ」
という格言があります。
人と話すときにはこの格言を常に意識するようにしています。
また、人の話を聞かない人は自分が考えていることが全て正しいと感じているような傾向にあると感じます。もちろんすべてがそうだと言うつもりはありませんが。
自分が正しいと思っているので人の意見を最後まで聞けず、自分がこうだと考えた瞬間に人が話している最中でも話をさえぎって話し始めます。
そして、その人の意見に対して意見を言おうとしても、また途中で話をさえぎられてその人の考えを一方的に押し付けられて不愉快な思いをさせられます。
もう話す気力さえなくなります。
自分の意見が正しいと思うのは自由ですが、もう話を聞く気がなく自分の話したいことだけを話す。そして自己満足し、はい、おしまい。話のキャッチボールができていない状態です。
過去に僕自身もこんな話し方をしていたのかと思うとゾッとします。
良い反面教師だなぁとその人にはある意味感謝です。
そういう人とは、必要最低限に付き合うくらいがちょうどいいなと思います。
それ以上深い付き合いをしようとも思いません。
自分の考えが正しいと思っちゃうとそこで成長も止まります。他の考えを排除し、狭い視野でしか生きていくことができなくなるので生きづらさも色々とあるでしょう。
もちろん、その人の人生であり正しいとか間違っているとか言いたいわけじゃありません。
僕自身、そういう生き方はしたくないとただ思うだけです。
人とは気持ちよく会話したいだけです。
僕自身、話を聞かないという経験があるので、その人の気持も分かる気がします。
そのことを早くに気づけて少しでも改善できたことが幸運だったのかもしれません。
耳が2つ、口が1つであるように会話するときは自分が話すより2倍聞く、くらいがちょうどいい気がします。
相手の話は最後まで聞く。それを意識して人との関係性を良好に保っていきたいものです。
今回はこの辺にしておきます。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
では、またねー(^^)
生きる意味なんてないのだろう
こんにちは♪
台風は沖縄本島に直撃しないのだろうけど、本州に向かうみたいですね。
今回の台風はなかなか強いみたいなので被害が出ないことを祈りたいです。
さて、今回も独断と偏見で書いていきます。
生きる意味なんて無いのだろうと最近思うんです。
最初で断っておきますが、これは悲観的な意味合いで考えているわけではありません。
生きる意味なんていくら考えても答えがでないため、考えて悩むくらいなら生きる意味なんて考えず自分の好きなように過ごしたらいいんじゃないかという考えです。
ホントに、今まで生きる意味をずっと考え続けてきたけど答えが出なかった。
どんなに功績を残そうが、数百年後、数千年後に歴史に残るような人物にならない限り忘れ去られていく。
誰かの役に立つため?日々成長するため?なんて色々考えたけど結局生きる意味って自分が納得できるかどうかで生きる意味を見出していくんだろうなぁって思います。
犬や猫になんで生きているのって聞いても、そんなこと自体考えていないよと返されるでしょう。よくわからないけど。
例えば、神様からあなたの生きる意味は「米粒をずっとずーっと眺めることです。それがあなたの生きる意味です」なんて言われたら「そんなの絶対間違っている!」なんて否定したくなりますよね。
神様に助言されても、速攻否定してしまいます。
ちょっと言葉が厳しいかもしれませんが、結局自分の都合の良いことで自分が納得できるような生き方を選択して、それが生きる意味だ!!なんて考えて生きているのかもしれません。
僕自身、哲学とか全然詳しくないから考えが浅いのかもしれませんが、生きる意味なんてないのだろうと思います。
自分自身がなりたい姿があったり、今を納得させるような考えで生きる意味のラベルを貼り付けるのでしょう。
もちろんそれを否定するつもりもありませんし、僕自身の都合の良いことを生きる意味と考えている部分もあります。
何が言いたいかというと、「生きる意味なんてない」けど「自分で生きる意味なんてないことを受け入れて、自分なりに納得しながら生きる」方がいいんじゃないかなということです。
その方がまだ気楽に生きられる気がします。
生きる意味なんてないということを受け入れることで、人生の最後までとは言わず、今を好きに生きてみようかなと考えられるようにもなります。
どうせ生きている意味なんてないのだから「今からそんな事始めて遅くないかな?」とか「こんなことしたら馬鹿にされるんじゃないかな?」なんて二の足を踏んでいることに対してもやってみようかなと思えるのかもしれません。
どうころんでもどうせ最期には死ぬわけだし、今やりたいことを結果など考えすぎずやったほうが良いよねと。
結果ではなく、過程を楽しんだほうが楽しいでしょう。
もちろん、何もしないという生き方もありです。
なんていうか、もう人それぞれの生き方、過ごし方に対して正解も不正解もないと思うんです。
やりたいと思ったことをやればいいと思うし、何もしたくなければやらなければいい。
とはいえ生きているとやらなきゃいけないこともあります。
やらなきゃいけないことは肩の力を抜いて淡々とこなす。自分で決められることはやりたいことをやればいいし、何もしたくなければしなくてもいい。
そうは言っても、僕自身、何もしないことに対して罪悪感を覚えることがあります。
僕自身の話ですが、休日一人暮らしで何もする気が起きないときもあります。誰に迷惑をかけるのでしょうか?何かしなければいけないって誰が決めたことでしょうか?
好きに過ごしたって良いんです。生きる意味なんてないんだから、迷惑かけなければいいんです。
これは僕自身に語りかけているものでもありますが・・・
もしかしたら、何もしない罪悪感は世間から植え付けられたことなのかもしれません。
本当は正解も不正解もない。
ちょっと話が変わりますが、世の中の常識って誰が決めたのでしょうか?
結婚したほうが幸せになれるとか友達は多いほうがいいとか、謎の常識みたいなのがありますよね。
以前と比べて最近は、多様性を認めていこうみたいな風潮になってきていますが、まだまだな気がします。
僕含め、人それぞれ常識って違うし、常識なんて本来ありません。
だから、好きなように生きていいし、人の目なんて気にしなくていいと思います。
自分が納得できる生き方はなんだろうか?と自分自身と対話し実践してみる。
それで納得できて、残りの人生を淡々と過ごすのもありです。
自分には自分なりの生き方があり、人には人の生き方がある。
それぞれ良さがあるのです。
長くなりましたが、そろそろまとめて終わろうと思います。
「生きる意味なんてない」ことを受け入れることによって、好きに生きて良いんだと1ミリでも思えるかもしれません。
どんなふうに生きていても自分にも相手に対しても常にオッケーを出し続ける。
オッケーを出し続けることによって自分の過去、今、未来を肯定できるのかもしれません。
過去は変えられませんが、捉え方を変えることはできるかもしれません。
答えがないことに悩み続けるくらいなら、今気の許せる人とおいしくアイスなんか食べながら、どうでもいいことを話している方が幸せなのかもしれません。
「生きる意味なんてない」という事実を受け入れて、自分自身のありのままを受け入れる。どんなふうに過ごしていようが、どんな自分であろうが淡々と受け入れていく。そして生きる希望を見いだす。すべては受け入れることから始まる。
みたいな感じでしょうかね。
まとめるとは言いましたが、まとまっていませんね。
とりあえずここまでにします。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
では、またねー(^^)
頭がパンク寸前なのであえて学ばない期間を作っています
こんにちは♪
いま沖縄は台風が接近しています。今回の台風はかなり強そうなので怖いですね。
先島諸島は今夜に接近するみたいです。被害が無いことを祈ります。
最近あえて学ばないことを選択しています。
勉強することは素晴らしいことかもしれませんが、なんだか勉強しきゃいけないという感情が自分自身にあり、自分で決めていることなのにやらされている感覚があるのです。
本を読んでいても文字を追っているだけで頭に入ってきません。
そして会社で文章を書く仕事をしようとしても、なかなか文章が浮かんでこなかったり、話すときに言葉に詰まったりと(元々のスペックかもしれませんが笑)
あ、これはかなりやばいなと。。。なんだか疲れているかも。。。。
あえて読書、ネット記事、スマホやパソコン検索からあえて距離を置いています。
そして好きなことをして過ごすことに専念しています。戦略的堕落を実行しております。
基本融通が利かないタイプで0か100思考のため、何かを学ばないとずっと学び続けないと怖くなる部分があるんですよね。ゼロヒャク思考がよくないことは頭ではわかっているのですが・・・
学んでは休んでを戦略的に繰り返すしか今のところは方法がなさそうです。
現代人ならではのデジタル依存症のため完全にはデジタル断食ができていない状況ですが、意識的にプチ断食くらいはできています。
その結果、だいぶ頭がリフレッシュされてきました。
しかし、今はまだ無理をせず頭をもう少し休めようかと思います。
学ばないことに焦りを感じることが一番良くないのかもしれません。
今はネットで情報がたくさんあって、人と比べて焦っているのかもしれませんね。
対処療法ではありますが、今は学ぶことや文字とできるだけ距離を置くことしか考えられません。
といっても、ブログを書いている時点で文字と触れ合っていることになるのですが笑
ただ気持ちを吐き出したかった。そして客観的に自分を見つめたかったから勢いでブログを書いています。
この頭がパンク寸前になりそうになる現象を根本的に解決するには、焦りを取り除く事かもしれません。
この現象と気持ち分かる方いらっしゃいますかね?
とりあえず、頭を休めてまたもとの調子になるように今を楽しんで自分自身を労って行きます。
ここまで読んでくれてありがとうございます
では、またねー
相手に伝えるときに大切なこと
こんにちは♪
はい今回も独断と偏見でブログを書きますので、優しい目で見てやってください笑
いきなりですが、相手に何か伝えるときって難しい言葉ってなんだか使いたくなりませんか?
なんで難しい言葉って使いたくなるんだろうか?
横文字を多用しまくって何を言っているのかわからない人もたまにいます笑
自分の知識が足りないだけかもしれませんが・・・
ただ思うんですよね
難しい言葉を使うって舐められたくないからとか、頭がよく見られたいからとかそんな理由がほとんどじゃないかなって
以前の自分自身がそうでした
相手に難しい言葉を使うと「????」みたいな怪訝そうな顔をされてしまっていました
当時の自分を振り返ってみると、ただ相手に対してマウント取っていて、相手への思いやりがありませんでした
そして相手は聞く気にもなれず何も伝わっていなかったと今になって思います
過去を振り返ると、何かを伝えるためにはわかりやすくなければならないなと思います
難しい言葉を使って相手に伝えているときってなんだか相手より上の立場に立って、気持ちよくなっている自分がいました
今でも気づくと難しい言葉を使っている場合がありますが、相手の表情を見ながら気づいたときにはきちんと噛み砕いて説明するように心がけています
そもそも伝えるって相手がきちんと分かるように伝えることが本当の目的です
相手に伝わらないと全く意味がなく、伝えていないことと同じです
相手に伝えるって、きちんとわかりやすく受け取れるようにボールを投げることが大切です
コミュニケーションってお互いに理解し合って会話のキャッチボールをするはずなのに、難しい言葉を使ってグローブをつけていない相手に向かって時速150キロのボールを投げているのと同じなんじゃないかなと思うのです
そりゃ、グローブを付けていない相手に剛速球をなげると怪訝そうな顔されますよ
既に専門分野の知識があったり、難しい言葉を使っても伝わるような相手にはそのような言葉を使ったほうがいいでしょう
お互いすでにその言葉を知っていて難しい言葉を使った方が簡潔に内容が伝わるならそっちのほうがベストです
逆にそのような相手には噛み砕いた言葉で話しすぎるとイライラさせてしまうことになります
ただどの相手にも専門用語や難しい言葉が伝わるわけではありません
話す相手をきちんと見極めて使う言葉を考えていかないと上手く伝えることができません
自分が気持ちよくなってマウントを取るなんて全く意味がなく、相手を思いやって相手に合わせた言葉をチョイスすることがコミュニケーションには必要だと思います
予備知識がない相手へ伝えなきゃいけない話題の場合、小学生でも分かるくらいに噛み砕いて伝えることが重要だと個人的には感じます
なかなか難しいのですが、それが相手に対しての思いやりであり、伝わる話し方です
昔マウントを取っていた自分自身を振り返ると恥ずかしくなることがあります
おそらく自分に自信がなかったのでしょう
自信がないから自分を大きく見せようとする。そんな気がします
たまに難しい言葉を多用されまくって、僕がよくわからないという顔をしても難しい言葉を使い続けて話を続ける人がいます
でも、言っていることがわからないので仕事では無い限りはスルーしてしまいます
わからない用語を連発されると聞く気なんて失せてしまいます
あぁ、過去に僕もそんな事していたんだなぁと思い出したりします
その人を反面教師にちゃんと相手には物事をわかりやすく伝えないといけないなと襟を正そうと原点に帰ることができます
相手の立場を考え、相手を思いやった言葉を選んで伝えること
常に心がけるように意識していきたいものです
今回はこのへんで
ここまで読んでくれてありがとうございます♪
では、またねー